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1998年の3月、我が最大の師であるポリーニを訪ねるため、はるばるイタリアはミラノまで旅したときの様子を紹介します。ポリーニの自宅を長時間探しまわった末、ようやくたどり着いた時の喜び、そして、本当に素顔の状態でのポリーニを少しでも皆様に知ってもらうことができれば嬉しいです。しかし彼と会話することのできた時間はあまりにも短かったため、肝心の部分が皆さんの満足行く内容にならないかも知れないことを残念に思います。



1997年当時、私は大学一年生でした。ポリーニの音楽に出会ってから既に十分な時が経ち、彼に対する尊敬の念は、自分の中でとてつもなく大きく膨らんで来ていました。ある演奏家の音楽を好きになると、その人の演奏をもっと聴きたくなるとともに、音楽とは直接関係のない普段の素顔や人間そのものを知りたくなるのは人として当然の心理。この私も例外に漏れず、雑誌やテレビで見るのとは違った日常のポリーニは一体どんなであるのだろうという感心を持ち始めていたのです。

アーティストの素顔。それがロックやポップなどのアーティストであったなら、雑誌やテレビでいくらでも紹介されていますから、容易にその人がどんなであるか知ることができます。しかし一度クラシックの演奏家となると話しはまるで変わってきます。もともとクラシック音楽というものは作曲家の残したスコアと、そこから生み出される音楽そのものに絶対的な重点を置くことによって初めて成り立つジャンルですから、それを今の世に甦らせる演奏家は第二義的な存在、つまり、音楽の奉仕者であって、決して主役になることはできない存在というのが実際のところではないかと思います。もちろん素晴らしい演奏家たちを称えた著作や伝記などが出版されてはいますが、本人たちにとっては依然として、はじめに作曲家があり、自分は音楽に奉仕しているとの意識を抱いていることが多いようです。

そのような献身的精神はポリーニの場合特に顕著で、彼はめったに自分のことを口にしません。またインタビュー自体も殆ど受け付けないようで、音楽について語った内容の記事すら、他の芸術家に比べて極端に少ないのです。こうした状況でしたから、いざポリーニについて演奏以外のことをいろいろ知りたいと思ったところで、一体どうしたら必要な情報を探し当てることができるのか、私には全く分からなかったのです。

しかしあるとき、私は自分の大学の図書館に音楽の友のバックナンバーが創刊当所より保管されていることを知りました。それからというもの、めったに足を踏み入れることの無かった図書館にそれこそ毎日のように通い詰るようになり、周囲の学生が勉学にいそしむのも尻目に、2冊一まとめになった重たいバックナンバーを何冊も抱え込んでは本棚と机を往復する作業を繰り返しました。

しかしその甲斐あって、ポリーニを始め、自分の好きな演奏家に関するインタビュー、特集、評論、などの記事が次々と発掘され、私は飢えた獣のように、貪欲に調べて行ったのです。

ある時、私は一つの記事を発見しました。それは、ポリーニが自宅で受けたインタビューを紹介したものでした。音楽の友創刊以来現在に到るまでに発刊された総数といったら、本当に気が遠くなるくらい夥しい数になります。にも拘らず、その一つ一つを丁寧に調べ上げてもポリーニに関する記事、さらに、彼の思想、人柄に最も近づくことの出きる生の発言を掲載した記事にぶつかるのは極めてまれなことなのです。この時に発見した記事は、それこそ私をして欣喜雀躍とさせるに十分なものでした。(この記事のインタビューは、「皇帝語録集」の方でいずれご紹介することになりましょう)

インタビューの話題は、主にウンベルト・ミケーリ国際ピアノコンクールに関するものでした。非常に興味深い話し合いで、現代と古典を弾きこなさなければならないとする彼の理念がよく伝わってきました。しかし、私にとって同じくらい、いや、むしろそれよりも重要だったのは、紙面に掲載されていた彼の自宅周辺のようすを捕らえた数枚の写真だったのです。よく住まいは人を表すなどともいったような気がしますが、四角い枠の中に収められた石造りの彼の自宅はなんとも素朴で、裕福な人間が住んでいるなどという印象はまるで与えないその外観は、それまで私が抱きつづけてきたポリーニのイメージと寸分たがわずに一致するものでした。ポリーニの、柔和でほんわかとした温かさを湛えていながら知性の煌きを秘めた表情からは、私は常々尊敬すべき好々爺とも言うべき印象を受けてきたのですが、私はその時、家の写真からポリーニの人柄を逆に決定付けられたような感覚にとらわれ、直感的に「訪ねてみよう」と思ったのです。もちろんそう私に決心させたのは、ポリーニの自宅があまりにも無警戒で、ドアベルさえ押せば誰でも、庭に飛び込んだボールを取りに行く感覚で入っていけそうな程の身近さを感じさせたからに相違ありません。これがもし高い塀と監視カメラによって取り囲まれたお屋敷であったなら、訪ねてみるなどという考えは以ての外であるくらいか、ポリーニに対してほんの僅かな失望感すら抱きかねなかったかもしれませんでした。やはり彼も有名人の一人であったかと。

しかし現実は想像を裏切りませんでした。そう。私は決心したのでした。ミラノの中心街付近という他、所在地に関する情報といえばこの断片的な、しかもどこにでもありふれていそうな一本の裏道の風景を収めた数枚の写真しか頼る手段が無いという困難も気にせずに。もはや最終的な「カギ」になるのはこの写真に他ならないと思った私は、次ぎに、どうやって写真を持っていこうかと思い巡らせました。図書館内にいくつも設置されているコピー機を利用しようかとも思いましたが、さすがに白黒では分からなくなってしまうし、かと言ってカラーコピー機は無いし・・・。そこで私の取った行動は、やはり罰せられるべきことなのでしょうか?一人の人間が、その人生を決定的に変えてしまったといってもいいほどの影響を与えた人物に会いに行くために、社会的ルールを犯してしまうことは、やはり糾弾されて然るべきだったのでしょうか?しかし、誰に何と言われようが、その時の私にとっては利己的にならざるを得なかったのです。私はその記事のあるバックナンバーを人影の無いところに持ちこみ、ポケットに忍ばせておいたカッターナイフを取り出すと、おもむろに記事の部分をすばやく切り取りました。刃を紙面にあてがっている時、まるで当然のことをしているかのように落ち着いていたのが今でも不思議です。記事を綺麗に切り取ると、文字情報としてのそのバックナンバーの価値を少しでも減じないようにと、白黒コピー紙片を記事のあったところに挟んでおきました。大抵の閲覧者にとっては、インタビューの内容さえわかれば十分に違いないという、なんとも勝手な独断のもとに私の計画の第1段階は終了したのでした。

1998年3月18日。私はイタリアの地に降り立ちました。途中英国のヒースロー空港を経由して、日本を出てから十数時間後、ようやくポリーニの住むミラノに到着したのです。時刻はもう9時を回っていたでしょうか。空港を出ると、昼間の熱をすっかり放出しきってしまった外の空気はひんやりと冷たく、ジャケットくらいは着ていないと寒く感じるくらいの気候でした。しかし外気の温度とは逆に、私の心の中では期待と不安がその組成比を目まぐるしく変えながら熱く渦巻いているのでした。フリースにジーンズ、背中には大きなリュックといういでたちの私には、もとよりウィンドウショッピングのような華やかなイタリア旅行の目的など毛頭あるはずもなく、矢のようになった意思は、ただどこにいるか分からぬ、しかしもう手を伸ばせばすぐに届くほどには近くにいるに違いないポリーニへと向けられていました。その日はもう遅かったので、予約してあったホテルに直行し、すぐに寝ました。

3月19日。実質的に第1日目。前々からポリーニ邸を探し当てるまではいかなる観光をもすまいと固く心に誓っていた私は、起床すると食事もそこそこに朝のミラノ市街へと繰り出して行きました。イタリアは遺跡などの歴史的建造物が数多く点在していることから、鉄道は市内に乗り入れることができず、中央駅は大分郊外に位置しています。私のホテルも駅のすぐそばだったので、当然ポリーニの住む中心街に行くにはかなりの距離があります。しかし私は歩いて行くことにしました。初めて訪れるのイタリアの大地を自分の足でよく踏みしめたいということもありましたが、今日1日、もしくは明日、明後日と探しつづけなければならないかもしれないことを思い、気合を入れるためにも、交通機関を利用しないことに決めたのです。

まだ早い時間だったので交通量も殆ど無く、またさすがに歩いて市内まで行こうとする人は少ないらしく、通行人も殆ど見かけませんでした。冷たく引き締まった空気を胸に吸い込み、まるで自分のために明渡されたようになった無人の街のなかを、足早に進んで行きました。

30分ほど歩いたでしょうか。にわかに立て並ぶ建物の密度が高くなり、人通りも増してきました。脇に目をやると売店(向こうの売店では、例外無く成人誌のようなものが売られているのには驚きました。こんなことにばかり気がつく私です)で新聞を買うサラリーマン風の男性客なども目に付き、気づけばあたりは完全に中心街たる様相を呈するようになっていました。更に進むと前方斜めの視界が突然開け、眼前にはガラスの天井をかぶった壮麗なアーケードが姿をあらわしました。有名なガッレリーアです。すぐ手前にはあのスカラ座もありました。ガッレリーアには様々な店が建ち並んでおり、その中の一つに「Virgin Record 」もありました。今回の旅行には、日本では入手できないであろう幻のディスクを発掘するという目的もありましたが、そこは後ほど訪れることにして、その時は一刻を争うようにして早足に通りすぎただけでした。

ガッレリーアを抜けると、いよいよミラノ大聖堂広場に出ました。雑誌の記事によると、ポリーニ邸はここから徒歩数分程の目と鼻の距離にあるということでした。つまり、ここを拠点にして半径10分程度圏内の地域をしらみつぶしに探索すれば、必ず見つかるに違いない、というのが私の考えだったのです。荘厳にして壮大な大聖堂の姿は、必ず訪れるであろう感動的な邂逅を強く確信付ける存在のようでもあり、便宜的な意味合いを度外視しても、スタート地点としてはこれ以上ふさわしいものは無い場所に思われました。私は観光局でもらったミラノ市の地図を片手に、ついに本格的な第1歩を踏み出しました。

しかし徒歩10分といっても、時速3,4Kmで歩いたとすればその距離約6〜700mはゆうにあります。ましてやイタリアは都市中心部と言っても細い小道などはごまんとあり、この距離を半径として探しまわることが相当な労力を要することは、容易に想像がつきました。自分で苦労もしないうちから人にたずねるのは気が引けましたし、それにもし万が一運良くすぐに教えてもらうことができてしまったら、なんだか、有り難味が無くなるようにも思われましたので、とりあえずは簡単な観光を兼ねて無作為に歩き回ってみることにしました。

時刻はまだお昼ご飯にはかなり早いと言ったくらいの時間帯。にも拘らず街にはすでに午後の活気が満ち溢れ、これも陽気なイタリアならでは、とこちらの胸まで弾んでくるみたいでした。周辺にはジェラートやパニーノ(サンドウィッチですね)を売るワゴン車が何台か止まっており、お客がさもおいしそうに買ったものを頬張るさまは、私の胃袋に忘れかけていた食欲を思い出させました。考えてみればホテルでは大した朝食も口にしなかったので、パニーノとミネラルウォーターを買い、胃袋の欲求を満たしてやることにしました。

パニーノと地図を手に、私は市街を歩き回りました。探し始めてからまだ1時間も経っていませんでしたが、何本目かの小道に差し掛かった時、私の歩みははたと止まりました。そう、似ていたのです。いつでも確認できるようにクリアケースに入れて持ち歩いていた写真と見比べると、確かにその通りはそっくりのように思われました。こうもあっさりと見つけることができた嬉しさに小躍りしたい気持ちを抑えつつも、ずんずん奥へと進んで行きました。しかし何かが妙でした。雰囲気、道幅など大まかな部分は共通しているものの、冷静に観察すると、細部が大分異なることに気づいたのです。気になったのでもう一度通りの入り口まで踵を返し、写真と同じ距離感で見通せるところまでやってくると、やはり写真の通りではないことが分かりました。

数時間後に悟ったことなのですが、イタリアの裏道は数が多いだけでなく、その殆どが同じような距離、同じような建物の連なり、同じような舗装、と言った具合に、残酷なまでに(もちろん私にとってのみですが)全てが酷似しているのです。正直言って高をくくっていた私は狼狽しました。写真さえあれば1日で十分見つけられると見積もっていた私の計算は、まさに取らぬ狸だったといえましょう。アリの巣のようになった異国の裏道の網のなかで一人、私はとてつもない焦燥感に襲われました。その時までには既にめぼしい通りは探し尽くしており、当然地図を指で辿るのとは比べ物にならないほど広い実際の市街の探索に予想以上の時間を費やしてしまったため、太陽は既に、再び地平線へと向かい始めていました。それまではたった一つの頼みの綱であった写真が、なんだかこれら全ての道の要素を合成した出来損ないのモンタージュ写真のようにも見えてきて、私の頭はいよいよぐらぐらとしてきました。今日中には見つからないかもしれない。そんな独り言が知らずに口から漏れていましたが、心の中では、このまま何日も不毛な放浪を続け、挙句の果てにはなにも得られずに日本へ帰る飛行機に乗る自分の姿が、恐ろしく映し出されていました。できれば一両日中にポリーニとの対面を果たし、残りの日程は素晴らしいイタリアの風土と歴史を満喫してすごしたいというなんとも贅沢な望みを抱いていた私ですが、その時の自分にはどこまで行っても逃げてしまう蜃気楼のごとき幻想にすら思われ始めていました。

もちろんいつまでも当てにならない自分の勘に任せて無闇に歩き回っていたわけではありません。途中通り沿いの店の店員や警察官、観光案内所職員、そして、道に関してなら特別詳しいに違いないと思われる宅配便の運転手の方にも写真を見せて尋ねもしました。その誰もがそれぞれ思い当たる通りの名前を教えてくれはしたのですが、期待に胸を膨らませて実際に行って見ると、依然として何人いるのだか果ての知れぬ双子のような景色があざ笑うように出迎えてくれるだけでした。そんなことを数十回も繰り返した頃には朝の元気もすっかり萎えてしまい、気がつけば出発地点である大聖堂まで戻って来ていました。さっきより随分傾いた西陽を浴びた石造りの聖堂は、今朝に比べて幾分頬紅を塗ったように橙色に染まっていました。まともな心境で見れば大層美しい景観に相違無いことは理性では理解できましたが、その時の私には、ただ見えない時間の壁が差し迫ってきていることを告げるための耐えがたい宣告のように思えて仕方がありませんでした。

その時、疲れ切った私の視界の隅に、客を待って蛇のように広場を囲んでいるタクシーの列が飛びこんできました。そうか。タクシーか。今まで一心不乱だったので全く気づきませんでしたが、餅は餅屋。道にかけてはタクシーに聞くのが最も手っ取り早いのは自明の理ではありませんか。万策尽きていた私は藁にもすがる気持ちで列の先頭にいた車両に近づきました。運転席の窓ガラスを軽くノックすると、痩せてはいるが、なかなかがっちりとした風の運転手が顔を覗かせました。「すみません。この通りを探しているのですが、ご存知ですか?これまでにいろいろ見て回ったのですが、そのどれもが違ったのです。」写真と地図を見せながら私が言うと、地図を指しながら、「うーん。この通りでもないのかい?だったら、チョメチョメ通りだな!ここからだったら徒歩で行けるよ。すぐそこさ。」とある方角を指差しました。それは自分でも行ってはみたが、だめだった方角でした。しかし、ボールペンでしるしをつけてもらった地図をみると、私が引き返した地点よりも幾分先を曲がったところにある通りであることが分かったのです。これまで何度も違う通りを教えらたのに懲りていたのでもう一度確信が持てるか尋ねてみると、運転手は自信たっぷりで絶対に間違いは無いとのこと。私は丁寧に礼をいい、最後の希望をかけて、駆け出さんばかりの勢いでチョメチョメ通りへと向かいました。

午前中にも通った道。しかし、あてども無く漫遊していたさっきとは違い、今は興奮で周囲の景色が後ろに流れて行くように感じました。私の意識は先へ先へと際限無く尖り、目指す曲がり角めがけて体よりも先に突き刺さってしまいそうでした。地図を見ると、先ほどの運転手が言っていた通りは次の角を曲がったところのはずでした。この時までに幾度となく期待を裏切られていましたが、その時ばかりはどういうわけか、全く根拠がないにも拘らず確信をもってこれで行ける、と感じたのでした。

ついに曲がり角までやってきました。私は勢い良く通りの入り口に真正面から立ちはだかりましたが、目は閉ざしていました。長いこと焦らされ、やっとの思いで望みのものを目の前にして対面のときを迎える時に、人は往々にしてその感動を少しでも先送りにしようとする心理が働きます。その時の私にも、まさに同様の現象が起こっていたのです。「ここで目を開ければすぐに答えが出てしまう。時間的に考えても、今日はこれ以上探しつづけるのは無理だろう。もし違っていたら、その結果のもたらす落胆は計り知れないものであろう事は容易に想像がつく。しかし、先ほどの運転手の自信たっぷりな口調から察するに、今度ばかりは本当に信じてもいいのではないだろうか・・・?ええいままよ、どのみちこのまま立ち去るわけにはいかないのだ!潔く目を開き、それでだめだったらまた探せばいいではないか。まだ残された日数は十分にある。優雅に観光旅行をしようなどという邪念をさえ取り払えば、2週間ここに留まり続けることだってできるのだ。さあ!」私の脳裏では、一瞬のうちにこのような思考が働きました。極めて卑近な例に例えるならそれは、皆さん御存知の有名なチョコレート菓子「ビックリマンチョコ」を開封する時に最も似た状態と呼べるでしょう。何をバカな、と仰るかもしれませんが、私と同じ位の世代の方ならお分かりでしょう。チョコレートの包装を開け、薄暗い闇の中でチョコの下に潜んだ他愛もない紙っ切れ(シール)が、ひょっとしたらヘッド(これはいわゆる”アタリ”を意味します)かも知れない!と思わせるような鈍い光をうっすらと放っていようものなら、たちまちにしてその真偽を確認する行為に及ぶのがためらわれてくる、あの殆ど全ての小学生が抱く微妙な心理を。そうした場合、まず近くにいる友人にその旨知らせ、数人でヘッドの可能性に関して慎重に論議検討を重ね、その可能性高しとの判断が下されるや否や、矢庭にその場は騒然とした、祝祭的な雰囲気に包まれるのです。 しかし現実は厳しく、衆人監視のもと、異様な興奮の渦の中でシールを引っこ抜くと、それは大抵悪魔に終るのです・・・。あとに残された荒涼とした敗北感といったら、なかったものです・・・。夕日が目に染みましたっけなぁ。そんな訳で、この時の私の心理は、まさにこのように例えることができるのです。

意を決し、私は目を見開きました。するとどうでしょう。信じられない光景。夢にまで見た桃源郷。私の夢は、見果てぬ夢に終らなかったのです。この体の底から震える上がるような感動を、一体誰と共有したらいいのか分からなかった私は、とりあえず恥ずかしくない程度のガッツポーズをとったように記憶していますが、実際のところ、歓喜の絶頂だったので無意識のうちになにか奇声をあげていた可能性も考えられます。周りのイタリア人にとっては何の変哲もないありふれた小道の一つ。しかし今、はるばる極東からやってきて、観光も尻目に1日を費やし、血眼になって探しつづけた末にようやく発見するに到ったこの一人の日本人にとっては、巨万の富にも値するほど価値のある存在なのでした。

私は日本から持参した雑誌の切りぬきを取り出し、そこに載せられている写真の風景と、今自分の目の前に広がる光景とを注意深く照らし合わせ、一つ、また一つと両者の共通点を見出していくにつれて、今日1日に蓄積された疲労が瞬く間に消し飛んで行くのを感じました。路面の舗装、看板の配置、縁石の位置・・・それら全てが一致することをしつこいくらい確認した跡で、ようやくその通りの中へと足を踏み入れて行きました。1歩、また1歩と歩みを進める度にポリーニの吐息が聞こえてきそうなほどにその距離が縮まってくるのを、高鳴る鼓動に痛いほど感じながら、ついに私は一棟のアパートの入り口前まで来ていました。ここまでやってくると、表通りの喧騒もさして気にならないほどの静寂がありました。そして耳を澄ますとかすかに聞こえるのは・・・・ピアノの音!間違いありませんでした。自宅を発見できただけでも運がよいのに、さらに在宅とは!自分に居所を伝えるかのように鳴り響くピアノの音色に吸い寄せられるようにして、私はいよいよ入り口のアーチをくぐりました。

薄暗いトンネルのようなアーチをくぐり抜けるとそこはいきなり中庭になっており、それを覆い囲むようにして2階建てのアパートの建物が佇んでいました。アパートとはいえ石造りでがっちりとした風貌はポリーニの音楽から感じとることのできるイメージと妙に符合するところがあり、彼がその素晴らしい芸術的な営みを行うにはとても相応しい場所であるように思われました。一体どこが玄関なのか見当もつかずにあたりを見回してみると、今しがた抜け出てきたアーチの脇に小さな部屋があるのに気づきました。少々緊張気味に、閉ざされていたガラスの扉を押し開けると、まず元気よく出迎えてくれたのは真っ黒な犬。人見知りしないらしく、嬉しそうに私の周りをぐるぐると歩き回っていました。それに続いて現れたのは、50くらいの眼鏡をかけた女性。ここを管理していらっしゃる方なのでしょうか。ポリーニ邸に用件のある人間は、まずここでその旨を伝えなければならないのかとも思い、とりあえずポリーニに会いたいと伝えると、意外にあっさりと二階にある玄関へ通じる階段の場所を教えてくれました。いきなりやってきてポリーニに会いたいなんて言い出すどこの馬の骨とも分からない東洋人をこんなにも無警戒に通してしまっていいものかと驚きを覚えながらも、私にとっては願ってもいない段取りのよさだったので、ますます激しく、まるで頭の中で脈打っているみたいにうるさく収斂運動を繰り返している心臓を少しでも落ち着けるように意識を覚醒させながら、薄暗い階段を二階へと登っていきました。

階段を登りきると、木製の大きな威厳のある長椅子を挟んで、二つの扉が並んでいました。先ほどの女性の話では右側の扉ということでした。電灯もなく、昼間だというのに随分と暗い踊り場にあってより一層黒く浮かび上がっている大きな扉の脇に目をやると、呼び鈴と思わしきボタンが見つかりました。これを押しさえすればポリーニに会える。そう、自分はとうとうここまで来たのだ。中からは外で聞くのとはまた違った反響でピアノの音が漏れている。それはつまり、ポリーニの存在証明でもあるのだ。今、自分とポリーニを隔てるものはもはやこの黒く、巨人のようににそびえ立つ1枚の扉を残すのみとなった!しかしそれもこれをひと押しするだけで取り払われるものなのだ。

今にして思えば、その時の私は極度の緊張のあまり、正常な思考ができていなかったと思います。ピアノの音が聞こえるということは、ポリーニがいるということの他に、彼が練習している最中という証明にもなるわけで、ここで私が呼び鈴を鳴らそうものなら、それは彼の仕事の妨げになるという至極当たり前のことが、その時の私には分からなかったのです。

私の指は呼び鈴を押していました。扉の向こう側で無造作なベルの音がけたたましく鳴り響きました。音の反射具合から言って、部屋の中は相当広いように思われました。と同時にピアノの音も止みました。一体誰が出てくるのでしょう。やはりここは家族のものに任せて、ポリーニが自分で出てくるなどということはまずないでしょう。そうすると、奥さん?それとも、息子さん?しかしそれ以来全くピアノの音がしません。もしかしたら、本当に本人が向かってきているのでしょうか!?どうしましょう!あれだけいろいろと言いたいことを考えてきたのにも拘らず、全部、キレイさっぱりと頭の中から消え去ってしまっています。このままでは迷惑をかけてしまう。逃げ出したいくらいだ!

そういう衝動に駆られた時、今度は自分がいる踊り場の中にも大きく鳴り響くようにして、扉の鍵が開けられる音がしました。その音は私を非常に驚かせましたが、その次の瞬間に私が目にしたものに比べれば、大したことはありませんでした。

ゆっくりと扉が開くと、それまで漆黒だった空間に突如まぶしい光が染み渡り、その白い空間の中に一人の男性が立っていました。それは、今まで何度もジャケット写真や紙面でお目にかかってきた非常によく知った人でありながら、実際とてつもなく遠い存在の人、ポリーニ本人でした。相変わらずワイシャツにネクタイ姿でしたが、自宅にいるということからでしょうか、髪はボサボサで、全く整えられていませんでした。そして例のものすごく低い声にのって発せられた第一声。「御用件は?」

しかし当の私にとっては御用件もクソもありません。とにかく風速50mで吹き荒れる感動と驚きの嵐によって私の内部は完全にパニック状態だったのです。ここから先の記憶が少々あやふやになるのですが、とりあえず自分が日本からきて、ポリーニのファンであり、日頃から尊敬して止まないというようなことをイタリア語で伝えた後、両手で握手を求めました。その時の感触は未だに忘れがたいものとなっています。彼の手は非常に大きくて温かく、また柔らかかったように記憶しています。数秒間噛み締めるようにして握手を交わしていると、ポリーニもようやくこの東洋人の来訪目的を理解したようで、表情にも笑顔を覗かせてくれるようになりました。

二人の手が離れた後、私がどうしてよいものやらおろおろしていると、なんと、まあ入りなさいという形でポリーニが玄関から中へと招き入れようとしてくれているではありませんか!ええい、全くこの幸せ者め!本人と話せた上にここまでしてもらった日には、ポリーニファン冥利に尽きるってもんです!異様に興奮しながらも、もう完全に参ってしまっていた私は、とにかく何かしなければ悪いと思い、とりあえず場を持たせるために鞄を開け、持ってきた手紙や土産を渡そうとしました。しかしすぐそばにあのポリーニが立っていると思うとどうにも頭の中が沸騰したようになり、鞄の中を探しているつもりが、実はただ引っ掻き回しているだけという情けない状態で、思いのほか手間取ってしまいました。その間にポリーニも「あなたもピアノを弾くの?」などと質問を投げかけてくれ、「はい、あなたの演奏に感動したから、ピアノを弾こうと思い立ちました!」などと、しどろもどろながらもなんとか会話を続けたものの、言葉のキャッチボールと呼ぶには程遠く、全体として沈黙が支配しているような、実に気まずい(と私には感じられました)雰囲気になってしまっていました。やっとの思いで手紙を渡すと、「ありがとう、読みますよ。」と言ってくれたので、思わず「今ですか?」などと聞いてしまいましたが、馬鹿なことを言ったもんだとすぐに後悔しました。案の定、「ああ、今は仕事をしなければならないので、あとで」といわれたので、あまり長居するのも迷惑だろうからと、最後に写真を1枚お願いしたところ、快く「いいでしょう」と言ってくださいました。セルフタイマーで撮影しようとしたのですが、カメラをセットした窓の縁だとちょっと位置が低すぎて、そのまま立っていたのでは首から下くらいしか写らないように思われました。そこで失礼にもしゃがんでくれるようにお願いし、念じる思いで写したのですが、帰国後現像してみると、なんとか写っていました。でもポリーニはあまりしゃがんでいなかったので、頭の上のほうが欠けてしまいましたが(笑)・・・。

その写真をとったあと、流石にこれ以上仕事の(そう、ポリーニにとっては、ピアノを弾くという行為は仕事でもあるんですよね。これ、忘れがちです)邪魔をしても申し訳ないと思ったので、深々と礼を述べてから失礼しました。最後に扉が閉められた時、まるで扉の向こうが広々とした外の空間で、こちら側は牢獄の中であるかのような気分に襲われ、今までに体験したことがないくらい言い知れぬ悲しみに満たされました。実を言うともっといろいろと話をし、なにか一曲好きなものを弾いてくれるくらいの歓待を夢見ていたので、この現実はあまりに厳しかったのです。もちろん練習中に訪ねてきた私がマナー違反であることは百も承知なのですが、これを最後にもうポリーニと個人的な接触を持つことは今後ありえないだろうと思うと、どうしようもなく悲しくなってきてしまうのでした。それともやはり、もっと積極的に話していれば異なる展開が期待できたのでしょうか。寡黙であったために、彼に悪い印象を与えてしまったのではないでしょうか。なんにせよ、全ては終ってしまったのです。2度目に入り口のアーチをくぐる時、私は頭をうなだれていました。全ての気力が消えうせた感じです。

気がつけば、またピアノの音が耳に入ってきました。彼が練習を再開したようです。曲は、リストのスペイン狂詩曲でした。はじめ呆然とした面持ちで音楽に耳を傾けていましたが、やはりポリーニの演奏は素晴らしく、次第に辛い気持ちも忘れて聞き入っていました。特にポリーニのスペイン狂詩曲は初めてだったので、弾いているという事実にも非常に驚かされました。しばらく弾いていると、突如として音がやみ、また戻って同じところを弾く、ということを何度も繰り返していました。以前雑誌のインタビューで、練習をする時に部分的にパートを取り出して弾く事はあっても、決してテンポを落としたりすることはないといっていましたが、それは本当で、どんなに短いパッセージを練習する時でも、速さは既にその曲が最終的に求めるテンポで弾いていました。スペイン狂詩曲のほかには、私の知らない曲も練習していました。聞いた感じでは現代曲のようでしたが誰の作品かは分かりませんでした。

私はアパートの壁際に立ち尽くしてしばらくポリーニの練習を聞いていました。途中、ポリーニが手を休めて、家族の人たちにでしょうか、何か大声で話していました。何と言っているのかは全く分かりませんでしたが。どのくらいそうやって立っていたのでしょうか。何時の間にか大分日も暮れてしまい、通りは次第に夕闇に染まってきていました。それでも依然として練習は終りそうにないので、私ももう少し聞いていることにしました。それにしても、この近所に住んでいる人たちは、聞こうと思えばいつでもポリーニの練習を聞くことができるわけでして、それは私にとってどんなにか羨ましいことに思われました。周辺の人たちは、ポリーニのことをどう思っているのでしょう?イタリアの一般市民に対し、ポリーニの名前はどれほど知れ渡っているのでしょう?自分の家の近所にはなんだか音楽の世界では有名らしいポリーニとかいうピアニストが住んでいるが、朝から晩までよく飽きもせず感心に練習するもんだよ。でも私にはクラシックは良く分かんないねぇ、という程度のものなのでしょうか。その後イタリアを旅する道中イタリア人と話をしていて、私がポリーニの家を訪ねた事に会話が及ぶ度に、彼について知っているか聞いてみましたが、その名を知るものは殆どおらず、必ずそれは靴屋のこと?と切り返されました。その感触からして、日本人が小澤征爾を知っているほどには、イタリア人にはポリーニの名前が浸透していないのだと思いました。イタリアという国は楽譜の記譜法の発祥の地であり、現在でもカンツォーネという伝統的な歌謡が国民に親しまれている事からも分かるように、音楽に対して非常に高い関心を持ち合わせている国民なのだろうと考えていましたから、ポリーニにしても、その存在くらいは知られているものとばかり思いこんでいた私には少々残念な事実でした。でも、ローマで入ったバーでピアノを弾いていたイタリア人はポリーニのことを当然のように知っていました。ピアノを学ぶものにとっては、やはり彼の名前を全く知らずにいるということは不可能なのでしょう。

あまり遅くなると夕飯を食べる店が閉まってしまうので、後ろ髪引かれる思いをなんとか断ち切りながら、私はポリーニの自宅を後にしました。とは言っても別段お腹が空いていた訳ではなかったので、どっと押し寄せた疲れを癒す為に、とりあえずビールを一杯引っ掛けようと、ガッレリーアのバーに腰を下ろしました。1日中歩き回った後にあおる一杯のビール。普段だったらどんなにかうまかったことでしょうが、この時ばかりは妙に苦い味がしただけで、アルコール分が程よい神経の弛緩をもたらしてくれた以外には特別良い効果は期待できそうにありませんでした。しばらくそこでちびちびと舐めるようにグラスを口元に運びながらポリーニの家での出来事を反芻していると、ふと、ある物を渡し忘れていることに気づきました。手紙に比べれば大した事はないのですが、土産にと日本から持ってきたマイルドセブンのことをすっかり忘れていたのです。手ぶらで行くよりはと、あれこれ悩んだ末に決め、地元のローソンで購入したワンカートン。ポリーニの好みに合うかは分かりませんでしたが、どうせあげるなら彼の好きなもので、且つ、日本でしか手に入らないものをという基準で考えた結果が、このマイルドセブンだったわけです。折角持ってきたのだからもう一度行って渡してこようと考えたのですが、その頃はもうすっかり冷静になっていたので、練習中に邪魔をしてしまったお詫びも兼ねて、なにか簡単な手紙を添えて1階にいた女性に渡してもらえば良いだろうと思いました。そこで手帳のメモ欄から1枚引き千切り、謝罪文とタバコについて簡単な手紙をしたため、バーを出ました。再び家に着くと、もうピアノの音は聞こえなかったように思います。夕飯の時間だったのでしょうか。私は先ほどの女性に手紙とタバコを渡してくれるように頼み、日本に帰ってからも手紙がかけるようにと、住所をうかがってからその場を去りました。その後、適当に夕食を取り、午前中に意気揚揚と通ってきたのと同じ道を、しかし、夜の闇の中に沈んで朝とは全く異なる表情になった道を、ふらふらと歩いてホテルまで帰りました。

以上が、イタリアにおける私のポリーニ的体験の一部始終です。時間にして言ってしまえば半日に満たないくらいの短いもの。しかし、その中で得た体験は、たとえ10年の時が流れたとしても一度か二度あるかないかというくらい貴重で素晴らしいものでした。

しかしこの話には後日談があります。この旅行は1998年3月下旬に行われたわけですが、その直後にはポリーニの日本公演が控えており、当然私は全てのコンサートに足を運んだわけです。そしてベートーヴェンの後期三大ソナタが演奏された日、私の友人が二階の客席の中にポリーニ夫人の姿を見かけたと言ってきたのです。手紙やお土産のことも少し知りたかった私は何とか話せないものかと思案しました。結局休憩中にはその機会がなかったので、コンサートが終了した後、階段を降りてくるところをなんとか見つけられはしまいかと思い、階段の下で待っていると、上のほうから真っ赤なコートに身を包んだ異国風の女性が階段を降りてくる姿が目に入りました。これは間違いないと直感し、思いきって「ポリーニの奥様ですか?」と尋ねたところ、予感は的中しました。そこで、「先月御自宅を訪問して、手紙など渡したものですが」と切り出すと、突然表情がぱっと明るくなって、「あー!あの手紙の人!どうもありがとう。」と、予想だにしなかった反応が返ってきたので私のほうも大変嬉しくなりました。あの様子から察するに、奥さんを含めて他の家族の方も読んでくださった可能性が高そうなのですが、どうやら私の熱意が少しでも伝わったらしく、私としてはもうこれ以上に嬉しい事はないのでありました。タバコも吸っていたとおっしゃっていたので、こちらも報われたわけです。ポリーニ夫人はその後雑誌のインタビューか何かがあるという事ですぐに楽屋の方に向かわれてしまいましたが、ポリーニが手紙を快く読んでくれたことが分かっただけで、私は十分幸せでした。

それ以後、年末などの節目に際して、教えてもらった住所宛てに手紙を送っています。が、返事は来ません。期待してはいけないこと、分かってはいるつもりなのですが、やはり、一度くらいは返事が来てくれると最高に嬉しいなぁなどと思ってしまいますね。そんな訳で、これからも時たま彼に手紙を書こうと思います。内容としては、彼の音楽を聞いた上での素人の感想などが中心になってしまいますが、どんなに稚拙でも応援している人間がいることで少しでも彼の励みになることを信じて、その芸術を見守って行きたいと思います。







ポリーニに渡した手紙はこちらでご覧頂けます。




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