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ー マエストロ・ポリーニ ー


マエストロ・ポリーニ。この共和国で素晴らしい音楽を奏でてきた愛すべきマエストロ。その卓越した技巧と類まれなる豊かな芸術性は長きに渡り全国民を魅了しつづけ、その勢いたるや国内にとどまらず、遠く異国の地からもわざわざマエストロの演奏を聴きに多くの人々が駆けつけるほどである。そんな国際的有名人のマエストロだが、普段の姿は飾らず、奢らず、誰とでも気さくに話してくれる温かい人間である。音楽について語るときには少年のように目を輝かせ、ピアノに向かうマエストロの瞳の中にはいつも熱い情熱の炎が燃え盛る。誰よりも平和と平等を愛するマエストロ。どこかで争いが起きている時には声高に友愛の大切さを説き、様々な弊害によって芸術を享受できない環境に追いやられている人々のために献身的に演奏会を開く。芸術は全ての人に遍く与えられるべきだというのがマエストロの信条。「青少年のためのコンサート」は、マエストロの行った立派な業績の一例である。

マエストロ・ポリーニ。街を歩けばそこかしこで彼の活躍振りが嬉々として話題に上がり、マエストロにあこがれる子供たちが集まってする人気の遊び第一位の座を、ここ数十年「1960年ショパンコンクールごっこ」が圧倒的に占め、一般的な中流各家庭には必ず脚の短い特製高低自在調節椅子付きのスタインウェイピアノが備え付けられているのも、一重にマエストロ・ポリーニの人徳の厚さのあらわれといえよう。

マエストロ・ポリーニ。彼の関心は音楽にとどまらず実に幅広い。科学、哲学、美術・・・。大学で物理を専攻し、哲学も学んだ経験をもつマエストロ。音楽の道を究めるために各々でスペシャリストとなることを敢えて諦めたが、現在でも様々なことに興味を抱いている。そうした素地の上に成り立つ、緻密な分析力と豊かな詩情、人間性が、彼の音楽にこの上ない広がりをもたらすのだ。視野狭窄に陥らずに物事を大きく捉えることができる能力もまた、マエストロのすごさのひとつである。

マエストロ・ポリーニ。彼は家に閉じこもって書物や楽譜と睨めっこをして毎日を過ごすようなことはしない。ピアノを奏でる時の強靭な打鍵を生み出す強い肉体が何よりそれを物語っている。マエストロは水泳が大好き。実際奥さんの話では「魚のように」泳ぐそうだ。夏になるときらきらと降り注ぐ太陽の下で、母なる海と踊り、リズムを刻むマエストロ。海岸の潮騒、海の鼓動、魚の話し声。海はマエストロを楽しませる音楽会なのだろうか。

マエストロ・ポリーニ。この共和国で素晴らしい音楽を奏でてきた愛すべきマエストロ。何より彼と同じ時を共有できる幸運に胸が弾まずにいられない。マエストロの音をしっかり受け止め、後世に語り継いでゆく事が私たちの役目だ。




ポリーニ略歴


本名マウリツィオ・ポリーニ(Maurizio Pollini)1942年1月5日、イタリアのミラノに生まれる。父親のジーノ・ポリーニは有名な建築家で、アマチュアの音楽家でもありヴァイオリンを嗜んだという。ルイジ・フィジーニらとともに「グループ7」に属し、オリベッティの近代建築は、彼らの設計によるものである。母親はピアニストで、自分の師でもあったカルロ・ロナーティ(1890〜1955)に息子の音楽教育を任せた。ロナーティは生徒に何かを強制せず、辛抱強く見守るタイプの教師で、自身も多声部の曲での各パートの奏法が非常に優れていたといわれる。だがロナーティの死後、ポリーニは師の一番弟子であったカルロ・ヴィドゥッソ(1910〜)に師事した。ヴィドゥッソはハンス・フォン・ビューローと、フンパーディンクの流れを汲むピアニストで、いわゆるヴィルトゥオーゾタイプだったらしい。指揮者のクラウディオ・アバドの父親ミケランジェロたちと室内楽を楽しんだりもしたらしい。ヴィドゥッソはフィンガリングの研究家で、ポリーニはこの師の下で、クラーマーの練習曲などを習ったという。

当時のポリーニは練習曲の教科書の陰に、バッハの「パルティータ」の楽譜を隠し持つようになっていた。ヴィドゥッソによるとポリーニは他の学生が2ページ暗譜するのに3時間かかったのに対して、僅か15分で10ページ暗譜することができたという。そして11歳の時、ヴィドゥッソと共にジョイント・リサイタルに出演したのが初めてのステージ経験だった。

その後十五歳の時からコンクールを目指して猛練習を開始する。それは父親が、「もしコンクールに優勝しなかったら建築家にさせる」と宣言したからだという。そしてこの年のジュネーヴ国際コンクールで第2位。ちなみに、この時の第1位はマルタ・アルゲリッチと、フランスのドミニーク・メルレであった。さらに翌58年にはポッツォーリ・コンクールにて見事優勝を果たしたのである。そしてとうとう1960年にワルシャワの第六回ショパン国際コンクールで、審査員全員一致で優勝を勝ち得たのである。この時、審査委員長だったアルトゥール・ルービンシュタインをして「技巧的には既に我々の誰よりも巧い」と言わしめたことは有名なエピソードとして残っている。当時のポリーニは、僅か18歳であった。コンクール終了後ポリーニはミラノの自宅に電話を入れ、父親に大声で「僕は元気です。僕は勝った」と叫び、後は涙で何も語れなかったそうだ。このショパンコンクールは毎回政治色が強いと批判されていたが、ポリーニは西欧のピアニストとして優勝を果たした最初のピアニストだった。その直後、パウル・クレツキ指揮フィルハーモニア管弦楽団とのショパンピアノ協奏曲第1番でレコーディングデビューを果たした。 だがそれ以後ポリーニは忽然として、楽壇からその姿を消してしまったのである。実際には労働者のためのコンサートなどにちょくちょく出演していたらしいが、ポリーニ自身述べるところによると、「よりよい音楽家になりたかったから」というのが本当のところらしい。だが詳しい事情を知る当時の人間の話では、ポリーニは映画や演劇にも興味を持ち、しかもチェスは免許皆伝クラスの名人で、スポーツカーを乗り回していたという。折角勝ち得た名声を棒に振り事実上引退生活を送るにはそれなりの事情があったに相違ないが、本当の理由は現在でも不明のままである。大学に行くためとか、病魔に犯されたなどという憶測も飛び交ったが、また一方ではイタリアからパリまで、腕まくりをしたままスポーツカーを運転したため、手に変調をきたしたとする説もある。 ポリーニは1968年にロンドンで復帰リサイタルを開いたと伝えられている。もしもそれが真実なら、10年の沈黙期間は8年と訂正されなければならない。しかしこの沈黙期間は、ポリーニにとってはかなり重要なものであっただろう。そして1971年約10年の沈黙を破って一連のリサイタルを開き、鮮烈な成功を収めた。

その後の活躍振りは周知のとおりである。EMIとの録音を一枚だけ残し、DGと契約。ストラヴィンスキーのペトゥルーシュカの演奏で鮮烈なDGデビューを果たし、以後発表された録音が音楽界を波立たせない事はなかった。あまりにも徹底して突き詰められた音楽表現は時として賛否両論を招いたが、とりもなおさずそれは際立った個性が故であった。もはやポリーニの音楽はこの世界において絶対的な地位を築いたといってよいだろう。

現在ではポリーニも巨匠と呼ばれるような年齢になった。髪が白くなり、皺も増えた。だが彼の音楽は益々まばゆいばかりの輝きと美しさを増し、年月と共に蓄積されてきた彼の人生の体験がそれに深みを与える。レパートリーの幅も、昔と比べても格段に増えたというわけではない。もともと彼はじっくり腰を据えて納得がいくまで作品と対峙するのが好きな芸術家だった。それは今でもそうである。長いことかけて取り組んだ音楽だけを録音する。このスタンスはこれからも保たれるであろうし、それが続く限りポリーニの音楽は常に真摯であり続けるはずだ。







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